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母の日あれこれ

 私は、「お年玉」以外、家族間進物、価値交換は一切行わないのですが、家族のほかのメンバーは、イベントごとに熱心に行っています。花が届いたり、お財布が届いたり、羊羹が届いたりと、それはまあにぎやかなものです。

 なぜ行わないの!? 誕生日もしないの?! と驚かれますが、理由はいろいろ。「折り返し」があるギフトは、選ぶのも、いただいて礼状を書くのも、すっかり面倒になりました。お年玉は、唯一、「上げっぱなし」でいい進物と考えているので、プレッシャーがない。その場で子供や老親からお礼を言われて、おしまい。quite simple。

 先日の母の日、親族のやりとりで白眉だったのは、二人きょうだいのうち、長子が、「母の日なら、おいしいものが食べられるのね」と言ったとか言わないとか。誰が作るのかといえば、想定されていたのは、「お母さん」だそうですよ。私はこの子がかわいくて仕方ないが、言われた「母の日の主役」は唖然として、普通のごはんを(それでも)作ったとのこと。えらいわ。

 けなげな同僚は、母の日がご母堂のお誕生日でもあったため、選んで買ったピンクのカーネーションを実家に持って帰ったら、ご母堂は旅行で空の下。お手紙書いて、置いてきたそうです。

 本当は、声を聴くだけでもいい、と思っています。それならば、母の日を選んで行う必要はない、いつでもしたいときにお話すればいいじゃないと思っており、5千円のカーネーションでなくて、スーパーマーケットで、500円のお花を10回買って帰ればいいじゃない、と信じている。あいにく賛同者は少ないよ。
 
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男子中学生の靴下は納豆の臭い?

 中学生男子、部活から帰ってきて、リビングに入ってきたらむわんと臭う。

 ただ、繊細な年代でもあるので、あなたの足が臭いよ、という言い方はしたくない。傷ついてしまうだろう。

 そこで、あなたを責めるつもりはない、と前置きした上で、男子中学生の足は臭いものだ、その年代であれば当然だ。だが臭うのは事実なので、足を洗ってきてくれないか、と話した。

 気にせず風呂場で洗ってきてくれたのだが、本当に「気にせず」だったのかどうかはわからない。

 「あなたの足が臭い」という言い方であれば、自分が言われてもショックを受けると思ったので避けたのだが、一般に、夏の間は男性でも女性でも、代謝として汗が出る限り、足は臭くなる。

 女性であれば、 シルクの五本指靴下を勧めるが、男子中学生は、「おじさんのようだ」と拒否する気がして、特に話題に出さなかった。
 
 足を洗えば臭くなくなる → 臭さの原因は洗い流すことができる → 靴下または靴を清潔に保つことも大事。

 洗濯籠に残された靴下によるものか、脱衣所もうっすら臭いが立ち込めていた。

 靴に消臭剤を吹き付けて、以前失敗したことがあるので、良い方法に出会いたいと願っている。

↓女性にお薦め。シルクのものは、ハンカチでもスカーフでも、テンション上がる。

5本指ソックス シルク(絹)フットカバー 【8130】 M(24~25、5cm)ライトベージュ

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「会社で働いてます」が「趣味」になる日

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 私も言いたい。生きるための最低限の糧を得るため以上には、働きたくないでござる! 建前全部取っ払った、偽らざる本音です。

 大体、田舎で育った2代目サラリーマンの子女は、祖父母の「戦争さえなければ…」は耳にタコができるくらい聞いているはず。あと、「農地改革さえなければ…」みたいなの。都市伝説じゃないよ、本当にあったお話。

 昔は、働かないで生きていくためには、財産、資産が必要だった。今もそりゃあるに越したことはないけど。でも、その「昔」は、親が決めた相手へ娘を嫁入りさせるにあたって、立派な嫁入り道具を準備して、お仕度にかかわる人みんなに「ご祝儀」をお渡しして、着物も用途に応じて何枚も仕立てて持たせることが「普通」だった時代。あるいは、自宅に大広間と続きの間があって、そこで一族郎党の「冠婚葬祭」を行うのが「普通」だった時代。

 今は、そんな支度をできる親御さんがいる家庭は、「普通」よりもかなり恵まれているといえるだろう。今の「普通」は、新宅の二人でできる支度をして、生活に困ったらお小遣いをもらいに実家に遊びに来なさい、になっている。
 こういった卑近な例だけでも、「普通」の示す内容が、時代によって大きく変わったことが分かる。

 また、もう一つ例を引けば、女性が一生のうちに生む子供の数は、1975年に2人を切っており、人口減少は既定路線。見方を変えれば、日本は40年以上前から、「誰も経験したことのない少子高齢社会」になるような施策を繰り返してきたともいえる。単年度における「誰も経験したことのないレベル」の差は小さくても、長い年数分が重なれば、大きなボリュームになっているのは当然だ。
 
 具体的にいえば、40年以上前は、一人の女性が子供を2人以上生み、国の人口が増えていくことが「普通」だった。でも、平成28年版 少子化社会対策白書では、1.42人しか生んでないと報告されている。今は、国の人口が減っていくことが「普通」になった。正反対だ。

 そして、現在、子供を産む世代である20代、30代は、私たちの世代よりもよほど世の中への理解が深くて、マネーリタラシーは高い上に、キャリアプラニングも大学時代から叩き込まれて、人生についての考察も進んでいる。

 インターネットがもたらした集合知の集積は、一人ひとりの知識(にアクセスできる)レベルを大きく向上させた。私は「いま」知らなくても忘れてもいい、ただ、この端末の向こうに知識の海があることを知っているだけで大きく違う、ってねえ! ものすごいことですよ。

 その若い世代から、「そんなに」働かなくてもいいのでは? という視点が出てきているのは、まあいろいろな情勢が絡んで必定ともいえるけど、やっぱり本質のところは、「これまでの常識」では大破れにしか見えなかったことが、「常識」になりつつあるということだ。

 体壊すまで「そんなに」働かなくてもいいのでは? 物欲を充足させるためだけに「そんなに」働かなくてもいいのでは? 郊外マイホームから往復2時間通勤電車に乗って疲れ果てるよりも、条件をそぎ落とした物件を借りて会社の近くに住めばいいのでは?

 驚くなかれ、どれも道理だ! そして、どれも40年前なら「馬鹿を言うな」と一笑に付されていたに違いないことだ。

 こうして考えていくと、若い世代は、知識を得て、合理性という武器を手に入れたように見える。経済合理性といってもいいかもしれない。その場合、取引に出されているのは、自分の人生、自分の時間という、誰でも持っているものだ。
 昔の若人も当然、自分の人生、時間を持っていたが、それが世界との取引のチップになることに気づいていた人はごくまれだった。人生は、起きたことの結果により形成されるものだった。今は、自分の送りたい人生にするために、構成要素を選ぶ時代になっている。

 いいですか。人間は死ぬ。100パーセント死ぬ。心臓病か、癌か、その他の外傷か、原因は種々あり得るが、結末だけは決まっている。
 ではどうするか。
 仕事でも、完成形、結末から考えて設計図を書いていくのは社会人の知恵の一つだが、どこで、誰と、どうやって死ぬかはコントロールできない。いつ死ぬかは誰にもわからないからだ。

 でも、死ぬときに、どう思いながら死にたいか、はコントロール可能だ。
 あれもこれもしておけばよかった、でもできなかった。ただし、我慢して仕事を続けたことは自慢で、死の床での慰めだ!って思いながら死ぬのを、(意外に思われるかもしれないが)私は全く否定しない。実際、祖父はそうやって慣れぬ仕事を長く勤めて、子供を4人育てて亡くなった。

 ただ、その我慢強い祖父の不肖の孫たる私は(若くない例だけど!)、もう「そこまで」、仕事というものに自分の人生を投資したくない。理由は、自分でコントロールできない要素が多すぎるから。利害関係者が多すぎるし、資金を引き上げる(仕事を辞める、変わる)ときも制約が多すぎる。

 だから、コントロールできる市場、容易に勝てる(=投資へのリターンや満足度が高い)市場に資金を投資して、あれもした、これもしたぞ!と思いながら死にたいとしみじみ思っている。ただ、この考えも、まだ現在の「常識」からすると、異端とみなされがち。

 幸い、慧眼な先人たちのおかげで、人生を株に例えて「会社に人生注ぎ込み=一社のみを全力買い」は危なすぎる、という理解は広がってきたので、そのうち、少しずーつ「常識」が変わっていくと予想している。

 「えっ会社で働いてるの?」
 「そうなの、今の会社で働くのは、私に向いてて好きー!」 

 というやり取りがフツーになされる時代に早くなりますように。
 向いてて楽しいから会社で働くよ!という人を、止めるつもりは全くないし、むしろ督励されるべきだと信じている。
 自分の得意なことだけをして過ごすのが人生の幸いですよ!!

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残念ですが、そのバッグはあなたにどんなドアも開けてくれません

 特に、高級ブランドものといわれるバッグについて。

 そのバッグを持っていようが持っていまいが、あなたに向かって開くドアの種類は変わりません。つまり、「あなたの価値」は変わらない。そう、ブランドバッグ、持たなくていいんです。

 もともと、高級ブランドは、一般人が買える(一般人に買わせる)ラインで収益を上げて、そのお金で、上流階級向けの(収益の合わない)馬具等を作っており、後者の少数アイテムこそがブランドの価値に資していると教えてもらったことがあります。

 また、今ここでいう「高級ブランド」発祥の地であるヨーロッパでは、もともと、その収益上げ向けラインも、食べるために働く階級(一般人)が買うものじゃなくて、働かなくても食べられて、次代もその生活ができる階級の人たちが買うものと想定されているので、実用面はあまり考慮されてないんですよね。バッグが重いのはpageに持たせればいいんだし、靴が歩きにくくても絨毯の上のみを行くなら構わないわけだし。

 高級ブランドを持つ(少なくとも、買う)動機には、アッパー層の生活へのあこがれがあるわけです。あのクラスが持っているものを、私も持っている、クローゼットにはある、莫大な資産はないけど、と。

 でも、所詮は、住む世界が違うんです。最新のラインを買って、これ見よがしに振り回して歩いても、それを理由に、あなたの目の前に上流社会(←本当の目的地)向けのドアが開くということはない。だからね、その目的で買うなら、はっきり言って、無駄です。

 偉そうなことをいいつつ、御多分に漏れず、わたしもバッグ類大好きでした!!
 20代の頃、資産形成の必要性なんてこれっぽっちも考えず(この時点でアッパー層にあこがれる資格ゼロ)、可処分所得は全部身を飾ることに使った…結果。

 何年か経ってトレンドが去り、それでも未練がましく何個か残していた重~いバッグ。出張に持って行き、その旅の空で、もうえーわ!!ってなりました。何より、重くて疲れてうんざりした。
 帰ってきてからすぐに、購入時の保証書や保存用アイテムを引っ張り出してきて、質屋に持ち込みました。その結果、お金は入るし、クローゼットは空くし、もう二度と、あの重いバッグを持ち歩かなくていいのねと、すがすがしい気分になったことを思い出します。

 同時に、あの時私は、色々と諦めたのだと思います。
 私には、あのドアは開かなかった。残念だけど、あちら側には行けなかった。
 
 でも、こっち側でも私、生きてるし!と今なら笑えますが。

 バッグのみならず、選ぶアイテムすべてがそうです。自分の所属する世界ではない世界への「扉」として買う「もの」は、あなたにドアを開けてはくれません。
 あなたがふさわしい人になったら開くかも?

 だからやっぱり、冒頭に書いたように、「あなたの価値」は変わらないということです。
 所有するアイテムはあなたの価値に影響を与えない。そぎ落とされて、何が残るか。そのときに、あなたの望む世界にいるかどうか。あなたの価値はあなた自身が決めるんです。

 私? 私はねえ、なーんにも持ってないよ。楽だが、糸の切れた凧のような寄る辺なさも感じる。
 からりと晴れた日の木造住宅のような心情に、悲しさと虚しさも時々訪れるけど、それらがまったく訪れないという人生もまたなかろう。保育園児も小学生も、はや人生の悲しさを知っているまなざしをしているよ。
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